昔は静かな漁村が今ではノルウェーやスウェーデンの金持ちのサマーハウス。海の近くか海が見えれば小さな50平米の家が1億円以上。これは海岸に沿った土地に新しい家を建てることは禁止されているためで、現在建っている家を買わざるをえないのです。また、買い取った家の外装を変えることも禁止されている為、内装をモダンにして住みます。漁村はどんどん滅び、住民は出来るだけ家を高く売り他の土地に移っていく。その為に夏が終わるとわずかに残る住民は苦労をする。病院や買い物全ての施設は人口が減った処からとっくの昔になくなり、サマーハウスとなった家々は夜は真っ暗、それでも生まれ育った場所から移りたくない人々がどの島にも何人かいる。台風がないスウェーデンでは海岸はのどか、とにかく海の近くに住みたがる。住み始めた頃ボートを持っている人達が多いのには驚いた。しかも、ごく普通の人たちがヨットやモーターボートを持っている。タクシーの運転手、学校の先生、大工さん等。この西海岸は大小さまざまな島々が散在しており、夏にはオランダ、ドイツ、デンマーク、ノルウェーからのヨットが多い。非常にユニークな西海岸,Göteborgから1時間で到着、後は海岸線を走り夕日を眺め日帰りできます。お勧めコースです。
2012年3月26日月曜日
2012年3月16日金曜日
度胸があった70年代の移民対策
年間10万人の移民を迎えるスウェーデンのこの頃、国民の態度は大分彼らに対して冷ややかになってきた。1千万人に満たないスウェーデンの総人口に毎年10万人(約2万人はスウェーデン人が外国より戻る、又永住ビザが何人に出されるか)の移民は確かに多い。私が住み着いた頃は、『何処から来たの?』『日本?行ってみたいわ』会った人達は実に好意的であった。ところが、やたらに移民が多くなったこの頃は、『又移民か』という顔をされる。
70年代のベトナム戦争のあと、難民避難所に集まった難民達の多くはアメリカが引き取り、その他の国々も手を差し伸べたが、老人や病人のいる家族は残されてしまい途方に暮れていた。スウェーデンは特別機を用意して、彼らを引き取った。その中には何人かの出産間じかの妊婦や重病人が混じっていた。デンマークのコペンハーゲンに到着した時には、彼等のために、スウェーデンから何台かの救急車が出迎えに出た。そしてフェリーでスウェーデンに入ってきた難民に ’’ようこそスウェーデンに” のプラカードを持った人達が優しく出迎え、何と度胸のある素晴らしい国とスウェーデンを誇りに思ったものでした。
今は ’’移民出て行け’’ のプラカードが目立ちます。
2012年3月12日月曜日
人名番号
銀行、病院をはじめ何処に行っても最初に聞かれるのがこの人名番号、そして "ID カード" の表示。例えば銀行に行った場合、窓口に ID カードを提出すれば万事OK. 色々と書き込むこともなく『口座を閉めたいのですが』『はい、分かりました。』出来た書類にサインをすれば終わり。病院でも同じ事。名前より人名番号を聞かれ ID カードを提出すれば『11時にヨハンソン先生ですね。』また、検診後処方箋は薬局の方に直接に行っているので、スウェーデン中の薬局で出してもらえる便利さ。常用剤は1年分を年4回に分けてもらうが、旅行で薬が切れたらその土地の薬局に ID カードを表示すれば一目瞭然、すぐに出してくれる。転居して最寄の病院に行っても、"ID カード" を提出すればカルテがそこにあり、新しい医師につく事ができる。1947年に設定されたこの人名番号と "IDカード" システム。全てが簡単。日本では管理されているようでいやだとの声が多いとか。後ろめたいことをしていなければこんなに安全で簡単なシステムはありません。
2012年3月6日火曜日
抜け出したいスウェーデンの冬
住み着いたスウェーデンは、私の性格に合っていてあまり文句がありません。でも、8月の末になると暗く寒い秋を迎えるのかと思うと、気分が沈んでしまいます。働いていた時はあまり感じなかったのですが、さすがに定年になり毎日家にいるとなると毎日の天候は気になります。多くの友人達は、南スペインやマジョルカ島、キプロス島、キャナリア諸島に3ヶ月から6ヶ月行ってしまいます。我々は娘の住むサンディエゴに2ヶ月間の予定で来ていますが、何と気持ちの良いことでしょう。友人の中でも暗い秋や冬を好む人もいます。文化活動に参加したり、一緒に編み物をしたりして楽しんでいます。でも、吹雪で風が強い日などは、聴きたいコンサートがあっても出て行く気になれないのです。昔は9月になると手袋をして歩いたものですが、地球温暖化でこの頃は10月の半ばごろまで何とか過ごしていけます。そして、スウェーデン人は何ヶ月も先の夏を待つのです。そしてやってきた夏があいにく寒い日の多い夏で雨、風で日本の冬のジャケットを着て歩く、、、。海は17度~19度。4週間の休暇を別荘で。その内の3週間が待っても待っても太陽にめぐり合わず、最後の週をスウェーデンより抜け出してギリシャに。よくある例です。
2012年3月1日木曜日
忘れらない言葉
79年の事。日本から姉と彼女の友人達がスウェーデンにやってきた。姉にとっては3回目の来瑞。それではスウェーデンから出ましょう。フェリーでデンマークに渡ればあとは束縛されず、西に南に特に目的なしに9人乗りの車でヨーロッパの田舎を走り回る事ができる。ホテルは、毎日いきあたりばったりで何とか見つかった。ところがオーストリーに入って、夜9時過ぎになってもペンシォンもホテルも見つからず、最後の望みで入った村でも満室と断られ途方に暮れていた所、中年の女性が通りかかり『泊まる部屋がないのですか?』と近付いてきた。我々の事情を聞くと、『私の家は子供が5人いたので部屋があるのでどうぞ』こちらは、我々の子供2人プラスもう一人12歳の子供、おとな6人の9人団体。しかも我が旦那を除いては全て日本人。彼女が天使に見えました。朝起きると朝食の支度が出来ており頭が下がりました。宿泊代を台所に置いて出たら、『インスブルックで美味しいお昼でも食べなさい』と返してきた。そして彼女は 『我々の19歳になる息子が今オーストラリアで一人旅をしていて、きっと誰かにお世話になっていると思います。そのお返しがあなた達に出来てこんなにうれしいことはありません。』 何とおおらかな考え方をする人でしょう。 この言葉はそれ以後私の脳裏に刻み込まれたままです。