2012年4月15日日曜日

隠さず話す



ある生徒の父親が詐欺で刑務所に入っていた。スウェーデンでは加害者の名前や住所を出さないので、黙っていればそれで終わるのですが、何となく噂が広がり、その子供がいじめにあった。それを聞いた父親は学校に連絡して、何故刑務所に入ったかを話したいと言った。その父親は自分の生い立ちから、そして悪い仲間との付き合い、警察に捕まったときの状態、刑務所での毎日などを話した。
生徒達は授業を聞くより、もっと真剣に聞き、色々な質問も出て討論会になった。その後その生徒へのいじめは終わった。高校生には元麻薬患者やホモセクシュアルの人が来て講演をしたりする。何でも隠さずに話して理解をしあう。とても好いことだと思うのですが、時には、そんなこと討論することはないのではないかと思う様な事件を、長い時間かけて討論したりする事もあります。

2012年4月10日火曜日

美人国スウェーデン






始めてスウェーデンに着いて、まず税関に立っていた女性のきれいなのには驚いた。60年代で既に、市電やバスの運転手が女性。その上美人。始めての外地で、とにかく皆きれいに見えた。背は高いし足はすらり、自分の足のかっこの悪いのが気になった。なんと、無声映画の名女優 グレタ ガルボ、そして イングリット バーグマン、アンーマーグレット等をハリウッドに輸出した国。美人が多いのは当たり前。43年住んだ今でも外国旅行をして帰ってくると、スウェーデンは美人が多いことに気がつきます。

2012年4月8日日曜日

窓を見る楽しみ








スウェーデンにきて、まず学んだことが窓を飾ること。自分の為に、また外を通る人たちの為に。
ここの国の人たちは、散歩を夕食後や、人が訪ねてきたりした時にします。町の中のアパート街や、郊外の住宅街で窓を見て歩くのは楽しいものです。南欧の様に外のブラインドをバターンと閉めないので、窓は-18度でもそのまま。うすいライトにちょっとした置物と緑、花を飾った窓は何ともムードがあります。これも流行があり、昔は色とりどりでしたが、今はすっきりと白でまとめるのがはやっています。

オープンカントリー







森と湖の国。我々の住んでいる所でさえ20分のドライブで行ける範囲に200以上の湖、それを囲む森。スウェーデンには森や湖、島で一日テントを張ることが許されている。湖や海の近くの土地所有者はこれを拒否することは出来ない。また、使用者は跡をきれいにしていくこと。ブルーベリー、きのこを摘むのにどの森に入ってもよい。森の所有者はとやかく言うことは出来ない。海や湖に沿って建つ家で自分達で作った桟橋に、他のボートが一晩停泊することを拒否することは出来ない。スウェーデンには誰でも海や湖に自由に入れるように、海、川、湖沿いは最低100メートルから家を建てることになっている。昔から既に建っている家はその対象にならないので、裕福族はおんぼろの家を莫大の金額で手にいれ、モダンにして住みます。
他の国に行くと海に出たくてもプライベートの立て札がかかり、海岸でピクニックをと思ったのに、どこからも入れず等はよくあることです。この政策は中々ユニークなので、他のヨーロッパの人々はスウェーデンのオープンカントリーシステムを大いに利用しています。

2012年4月4日水曜日

学費は大学まで無料






日本に住む息子の家族は、4歳の子供の学費預金を始めたとか。ここスウェーデンでは学費は大学まで無料。そして大学生には月約34000円の援助金が与えられ、その他の生活費は学生ローンを月(7万4千円)借りることが出来る。学生用のアパートはワンルームのトイレとシャワー、キッチンで約5万4千円から。足りない分は国よりアパート代の援助(家賃の何パーセントかは不明)がある。その為、週末にアルバイトをしたり、夏休みの一部もアルバイト。借りた学生ローンは25年で返済し、60歳で完了しなければならない。学生は派手でないので、これで何とかやっていける。80年代に滞在していた日本の商社の家族のお嬢さんが、高等学校、大学をスウェーデンで終了した為、学費用に貯めていた預金を、旅行に使うことが出来、世界中を旅して回っていた。そのご夫妻は今でもコーラスに入り世界中歌い回っています。

2012年3月26日月曜日

人気の西海岸




昔は静かな漁村が今ではノルウェーやスウェーデンの金持ちのサマーハウス。海の近くか海が見えれば小さな50平米の家が1億円以上。これは海岸に沿った土地に新しい家を建てることは禁止されているためで、現在建っている家を買わざるをえないのです。また、買い取った家の外装を変えることも禁止されている為、内装をモダンにして住みます。漁村はどんどん滅び、住民は出来るだけ家を高く売り他の土地に移っていく。その為に夏が終わるとわずかに残る住民は苦労をする。病院や買い物全ての施設は人口が減った処からとっくの昔になくなり、サマーハウスとなった家々は夜は真っ暗、それでも生まれ育った場所から移りたくない人々がどの島にも何人かいる。台風がないスウェーデンでは海岸はのどか、とにかく海の近くに住みたがる。住み始めた頃ボートを持っている人達が多いのには驚いた。しかも、ごく普通の人たちがヨットやモーターボートを持っている。タクシーの運転手、学校の先生、大工さん等。この西海岸は大小さまざまな島々が散在しており、夏にはオランダ、ドイツ、デンマーク、ノルウェーからのヨットが多い。非常にユニークな西海岸,Göteborgから1時間で到着、後は海岸線を走り夕日を眺め日帰りできます。お勧めコースです。

2012年3月16日金曜日

度胸があった70年代の移民対策



年間10万人の移民を迎えるスウェーデンのこの頃、国民の態度は大分彼らに対して冷ややかになってきた。1千万人に満たないスウェーデンの総人口に毎年10万人(約2万人はスウェーデン人が外国より戻る、又永住ビザが何人に出されるか)の移民は確かに多い。私が住み着いた頃は、『何処から来たの?』『日本?行ってみたいわ』会った人達は実に好意的であった。ところが、やたらに移民が多くなったこの頃は、『又移民か』という顔をされる。
70年代のベトナム戦争のあと、難民避難所に集まった難民達の多くはアメリカが引き取り、その他の国々も手を差し伸べたが、老人や病人のいる家族は残されてしまい途方に暮れていた。スウェーデンは特別機を用意して、彼らを引き取った。その中には何人かの出産間じかの妊婦や重病人が混じっていた。デンマークのコペンハーゲンに到着した時には、彼等のために、スウェーデンから何台かの救急車が出迎えに出た。そしてフェリーでスウェーデンに入ってきた難民に ’’ようこそスウェーデンに” のプラカードを持った人達が優しく出迎え、何と度胸のある素晴らしい国とスウェーデンを誇りに思ったものでした。
今は ’’移民出て行け’’ のプラカードが目立ちます。

2012年3月12日月曜日

人名番号



銀行、病院をはじめ何処に行っても最初に聞かれるのがこの人名番号、そして "ID カード" の表示。例えば銀行に行った場合、窓口に ID カードを提出すれば万事OK. 色々と書き込むこともなく『口座を閉めたいのですが』『はい、分かりました。』出来た書類にサインをすれば終わり。病院でも同じ事。名前より人名番号を聞かれ ID カードを提出すれば『11時にヨハンソン先生ですね。』また、検診後処方箋は薬局の方に直接に行っているので、スウェーデン中の薬局で出してもらえる便利さ。常用剤は1年分を年4回に分けてもらうが、旅行で薬が切れたらその土地の薬局に ID カードを表示すれば一目瞭然、すぐに出してくれる。転居して最寄の病院に行っても、"ID カード" を提出すればカルテがそこにあり、新しい医師につく事ができる。1947年に設定されたこの人名番号と "IDカード" システム。全てが簡単。日本では管理されているようでいやだとの声が多いとか。後ろめたいことをしていなければこんなに安全で簡単なシステムはありません。

2012年3月6日火曜日

抜け出したいスウェーデンの冬



住み着いたスウェーデンは、私の性格に合っていてあまり文句がありません。でも、8月の末になると暗く寒い秋を迎えるのかと思うと、気分が沈んでしまいます。働いていた時はあまり感じなかったのですが、さすがに定年になり毎日家にいるとなると毎日の天候は気になります。多くの友人達は、南スペインやマジョルカ島、キプロス島、キャナリア諸島に3ヶ月から6ヶ月行ってしまいます。我々は娘の住むサンディエゴに2ヶ月間の予定で来ていますが、何と気持ちの良いことでしょう。友人の中でも暗い秋や冬を好む人もいます。文化活動に参加したり、一緒に編み物をしたりして楽しんでいます。でも、吹雪で風が強い日などは、聴きたいコンサートがあっても出て行く気になれないのです。昔は9月になると手袋をして歩いたものですが、地球温暖化でこの頃は10月の半ばごろまで何とか過ごしていけます。そして、スウェーデン人は何ヶ月も先の夏を待つのです。そしてやってきた夏があいにく寒い日の多い夏で雨、風で日本の冬のジャケットを着て歩く、、、。海は17度~19度。4週間の休暇を別荘で。その内の3週間が待っても待っても太陽にめぐり合わず、最後の週をスウェーデンより抜け出してギリシャに。よくある例です。

2012年3月1日木曜日

忘れらない言葉



79年の事。日本から姉と彼女の友人達がスウェーデンにやってきた。姉にとっては3回目の来瑞。それではスウェーデンから出ましょう。フェリーでデンマークに渡ればあとは束縛されず、西に南に特に目的なしに9人乗りの車でヨーロッパの田舎を走り回る事ができる。ホテルは、毎日いきあたりばったりで何とか見つかった。ところがオーストリーに入って、夜9時過ぎになってもペンシォンもホテルも見つからず、最後の望みで入った村でも満室と断られ途方に暮れていた所、中年の女性が通りかかり『泊まる部屋がないのですか?』と近付いてきた。我々の事情を聞くと、『私の家は子供が5人いたので部屋があるのでどうぞ』こちらは、我々の子供2人プラスもう一人12歳の子供、おとな6人の9人団体。しかも我が旦那を除いては全て日本人。彼女が天使に見えました。朝起きると朝食の支度が出来ており頭が下がりました。宿泊代を台所に置いて出たら、『インスブルックで美味しいお昼でも食べなさい』と返してきた。そして彼女は  『我々の19歳になる息子が今オーストラリアで一人旅をしていて、きっと誰かにお世話になっていると思います。そのお返しがあなた達に出来てこんなにうれしいことはありません。』  何とおおらかな考え方をする人でしょう。  この言葉はそれ以後私の脳裏に刻み込まれたままです。