2012年1月28日土曜日

ピッテイパンナ



スウェーデンスタイルのチャーハン。残り物の肉とポテトと玉ねぎを細かく切ってバターで炒め、塩、コショウで味付けるだけ。付けあわせとしてビーツとピクルスそして目玉焼き又は卵の殻に黄身だけ入れて上にのせてだす。スウェーデンの主食はポテトで残りはこのようにして始末します。

2012年1月26日木曜日

りんご祭り




日本には各地に四季をとうして盛大なお祭りがあります。スウェーデンにきてがっかりしたのがお祭りです。数少ないお祭りが ”これで終わり?” という感じで終わりなのです。ここより約300キロ離れたりんごの産地 Kivik で ”りんご祭り” があるとか。期待せずに行ったお祭りのハイライトは、毎年選ばれた芸術家がりんごで約110平方メートルの絵を作り上げるとか。その周辺は、南独特の(南は元デンマーク領)デンマークスタイルの民家が点在し、まるで絵葉書のようでした。そしてりんごの絵には十分に満足。約35000個のりんごで作った世界一大きな絵だそうです。

2012年1月24日火曜日

スモルゴス タイム





                        
多くの友人から離れこの田舎に移った時は不安でした。隣は一体どんな家族か?馴染む事ができるか?若い家族ばかりでは?ところが、道路の反対側は定年家族が2軒。すぐに意気投合、散歩、ピクニック、ランチ、ディナー、共に動いてます。84歳から68歳まで話題が豊富で何よりです。
今日は我が家でスウェーデンのオープンサンド(スモルゴス)。バターを塗ったパンに好きな物をのせただけのもの。フォークとナイフで食べます。又、ちょっとしたパーティにはスモルゴストータ(ケーキスタイル)でおもてなしをします。その場合はマヨネーズを使い2段 3段にして自由に飾って出来上がり。試してみては如何でしょう。

2012年1月23日月曜日

民族衣装









     
各県にある昔からの民族衣装。日常には使われていませんが、正装として認められているので、結婚式、建国記念日、夏至祭等に多く使われます。白いブラウスは白い糸で細かく刺繍がしてあったり、チョッキやスカートにも刺繍が多く、非常に手間がかかるので高価な衣装です。今はよっぽどの時間と興味のある人は自分で縫い上げますが、とにかく根気が必要です。お隣の奥さんは1年半かかって付属品(バッグ、スカーフ、帽子)もいれ完成しました。赤い馬のダーラナ地方は日曜日のミサに民族服で出かけるのを見かけます。各県によって夫々違い出身地の衣装を身に着けるのが普通ですが、外国にて使用するのは黄色と青のスウェーデン国の衣装を着用するのが人気のようです。(一番上の写真は国王一家)

2012年1月21日土曜日

男女平等???




まだスウェーデンに来て間もない頃主人の友人達が良く招待してくれました。驚いたことはおむつの取替え、料理はご主人が。奥さんはソッファにでんと座ったまま。何処の家庭も動くのは男性達。
当時のこちらでの日本のイメージは、主婦は主人のために靴を暖めておく、洋服を着替えるのを手伝うとか、客が来ても台所に入ったままで料理をしてサービスする、お風呂は最後でしかも日本は同じお湯で家族が入るとか、汚い湯に入るわけ?等 等。日本の状態を知らない人たちにどの様に説明すれば分ってもらえるか苦労しました。私のスウェーデンの最初の頃の印象は、”女性が強い”。という事は”男性が弱い”。全て ”女房に聞いてから” ”ボスは彼女だから”。 女性が強い面では43年経った今でも変わりませんが、男女平等という面から見ると世界でもトップのクラスに入っています。

2012年1月20日金曜日

メトロポリタンオペラがこの田舎で






隠居生活に入り田舎に移った時は、期待していた文化活動は無理と断念していたのですが、この9000人の人口の町にも劇場があり、話題の映画だけを月に2回、又、講演やコンサートもあり、
まあ何とか満足はしていたのですが、まさかメトロポリタンのオペラをで観賞できるとは。
これはニューヨークより衛星中継にて世界中に送られてくるのですが、映画館でのオペラ観賞は
歌手がアリアを歌っている顔の表情が画面一面に写り、オペラを体感出来るという特典があります。
この他にボリショイバレーやロンドンのロイヤルバレーも加わり、この田舎で世界中の超一流の
オペラ、バレーを年10回。幸せであります。

2012年1月19日木曜日

ダーラホース










スウェーデンの家庭なら1つはある赤い馬。400年前にダーラナ地方で、子供のおもちゃとして始まり、現在はスウェーデンのシンボル。以前は白と黒又は青の水玉模様。現在のオレンジ色は1930年代に始まった。但し模様のほうは1840年代頃から伝統的なダーラ風の描き方になり、1939年のニューヨークの万博に、高さ3メートル(約1トン)のダーラホースがスウェーデンの象徴として出品されてから装飾品として売り出される様になった。又、一本の筆で2色を使うのが特徴。

2012年1月18日水曜日

教授、 医者、 社長、 皆名前で呼ばれる





義母に始めてあった時 「マイケンです」と言われ戸惑いました。彼女の名前は”マイケン”、でも私は義母に向かい「マイケン」と呼ぶことが出来ず「ママ」と呼びましたが、彼女はOKでも他の人たちが、「ママがこう言ったので」と言うと、皆キョトンとした顔で訳が解らない状態。「貴女の日本のママが?」。スウェーデンでは義母や友達の母親のことを「ママ」とは言わないのです。ママと呼ぶのは自分にとって一人。生みの母のみ。でも私は、彼女が亡くなるまで「ママ」で通しました。
幼稚園の子供は先生のことを名前で呼び捨て「アンナ!」「エヴァ!」
大学生も同じこと。世界的に著名な教授に、これまた呼び捨て「ハンス!」 「二クラス!」
病院でも医者が「きくこ!」 と呼び、その医者が初めてのときは彼が「ケントです。」といって握手します。隔てがなく全てが簡素化しているスウェーデンです。

 

2012年1月17日火曜日

ヤンソンの誘惑













スウェーデンに来て何が美味しいかと聞かれたら、このなんともいえない名前の"ヤンソンの誘惑”
と答えます。いわれはオペラ歌手のPer Adolf Janzon(1844ー1889)が作り始めアンチョビーグラタンといわれていましたが、その40年後にストックホルムに住むElvira Stigmark夫人が、彼女の好きな俳優が出演している映画”ヤンソンの誘惑”(1928年)という名前にして広まったといわれています。
材料(4人分) ポテト中ぐらいのを14個
                       
                        玉葱中ぐらい2個

                        アンチョビー スウェーデン製(生なので上記の缶は要冷蔵)
                        汁は捨てないこと

                        生クリーム 2.5dl

ポテトは千切り、玉葱も千切りで軽くバターで炒めてさます(生でもよい)。
バターを塗ったグラタン皿にポテトを2/3ひき、その上に玉葱をのせ、そのうえにアンチョビーを重ね残りのポテトを一番上に重ねておく。
アンチョビーの汁を上から満遍なくかけ、生クリームも同じようにかけ200度で約45分。
途中で焦げ始めたらフォイルをかけてポテトが柔らかくなるまで焼く。

2012年1月14日土曜日

市電は全てWelcom.





市電に乗ると犬が乗っていたり、車椅子や、乳母車に出会います。ここでは手をあげてタクシーを、と言う訳には生きません。殆どのタクシーは予約せねばならず、それに高い。公共の交通機関を出来るだけ使います。但し老人で足の不自由な人達は、タクシーで市内ならどんな距離でも片道約400円で利用できます。例えば30キロの距離をたったの400円。これを利用するには勿論、医師の証明が必要ですが、一人住まいの老人達が出来るだけ外出する様に手がけた政策です。

2012年1月12日木曜日

行った先はりんごのジャム作り






初めてのスウェーデンでの秋。何処の家にもりんごや西洋梨の木があり、秋になるとジャム作りが始まります。義母が電話にてどこどこに行くとのこと、まだスウェーデン語が殆ど解らず、「11時に迎えに行く」は解りスーツにハイヒールを履いて待っていました。着いたのは主人の実家。台所に山と積まれたりんごが。一緒にりんごジャムを作りましょう。 ということだったのです。スーツにハイヒールでかっこが悪く上着を脱いでエプロンを借り作業にかかりました。りんごを4等分に切り芯を取るだけの簡単な仕事。ところが、妊娠3ヶ月の私はりんごの酸に気分が悪くなり、少し横になったら、いつの間にか寝てしまい目が覚めたら30位の消毒した壜に暖かいジャムが出来上がっていました。かっこが悪いところに10壜私たちにとのこと。「どうやって10壜食べるのですか?」「1年分よ!!」 当時のスウェーデンでは何処の家にも食料貯蔵室が年間15度を保っていました。そこに色々なジャムや摘んだラズベリーやブルーベリーのシロップを作り貯蔵して、殆どの家庭は自家製で間に合わせていました。現在でもジャム作りは人気があります。りんごジャムは豚、鶏によく合うし私は もっぱら即席で(砂糖と水少々で5分位)間に合わせています。

移住した国は野菜不足




日本は何時でも野菜が豊富。スウェーデンに来て困ったのが日本での普通の野菜が手に入らなかったこと。例えば、白菜、なす、レタス、ほうれん草、しいたけ等。すき焼き用の野菜はねぎだけ。70年の始めにやっと手に入れた白菜(細くてすごく長い)は、レストランのコックたちが買出しに来る店で肉と同じぐらいの値段でした。野菜サラダはトマト、きゅうり、サラダ菜のみ、付け合せの野菜は人参とグリンピースが一般的でした。でも現在のスーパーはサラダ系だけで
15、6種類、また地中海の野菜や中近東、アジア、アフリカの野菜で事欠くことはありません。これは移民達がもたらした結果で、これに関しては移民反対者達も感謝せずにはいられないのが現状です。

2012年1月9日月曜日

シベリア旅行




1966年に始めてスウェーデンを訪れ、帰りは当時で一番安い方法で日本に帰りました。
ヨーテボリ=ストックホルム (汽車) ストックホルム=ヘルシンキ (大型フェリーで一泊) 
ヘルシンキ=モスクワ (汽車で一泊) モスクワ3日間ホテルに滞在
モスクワ=ハバロスク (飛行機) ハバロスクでホテルに一泊 、ハバロスク=ナホトカ (汽車で1泊)
ナホトカ=横浜 (ソビエト船で2泊)合計12日間の旅、日本とスウェーデンの距離を感じました。
モスクワに着いた時道路の幅がものすごく広いのにまず驚きました。反対側に渡るのに大変だったのを思い出します。どの店も商品は少なくがらっとして、店に並ぶ商品は、戦後の日本の商品のほうが、ぐっと優れていた様な感じで、共産圏の現実がそこにはありました。モスクワの飛行場まではタクシーで。がたがたの車で、大自然の中を走っても走っても中々車にも遇わず不安になり、何度も「飛行場?」と聞きましたが、「DA (イエス)」 そのうちに飛行場らしき風景にほっと一息。ハバロスクまでの飛行機には大きな籠にトマトを一杯持った人や、そこにはどこかの市場の大移動という感じでした。乗った飛行機は、ちゃんと着いてくれるか不安になる様な飛行機でした。無事ハバロスクに到着。ホテルに着いたら何と日本人がチェコやドイツから結構集まり、一人旅行に終止符。
その数年後に、ソビエトのアエロ フロウト航空がモスクワ経由でヨーロッパ各地に運行を始め助かりました。

2012年1月7日土曜日

大蔵大臣はポニーテ-ルにピアス







外見をあまり気にしないスウェーデンの代表的なのが、この彼。大蔵大臣に就任した時国民はポニーテールにピアスの彼に 「 あれっ!! 」という感じでしたが、真摯な態度でしかも才気のある仕事ぶりは国民どころか、外国からも認められ、2011年度11月の  Financial Times  と 12月の The Economist  でヨーロッパでの大蔵大臣の中で、最も巧妙な大蔵大臣に選ばれました。又、この1番に選ばれた大臣は、国会で仕事中の週日はストックホルムで1部屋の学生寮で過ごし、週末に家族のもとに帰るという生活パターンです。学生寮では何かと不便ではとの質問に「 寝るだけだからどこでもいいんだよ」 感心させられます。

2012年1月4日水曜日

マルク郡の石の橋









働いていた頃休日に、よくピクニックの支度をして郊外に出かけました。その時見つけた石の橋に魅了され、何度か出かけたものでした。定年後に住み着いたこの地区が、まさか石の橋のメッカとは。旧道にかかる石橋はそれぞれ趣が異なり、橋の周囲の景色を一層ひきたてています。日本やアメリカからのお客様をまずお連れする場所です。本や映画にもなった屋根のかかったアメリカのマディソン郡の橋も見ものですが、スウェーデンのマルク郡の石橋も中々見ごたえがあります。ヨーテボリより約1時間。

2012年1月2日月曜日

スウェ-デン人は誤るのが嫌い

「間違ってたわ。ごめんなさい」といえるスウェーデン人は数える程で、彼らはいつも正しいのです。
パン屋さんで
「先週買ったパン、頼んだのではないのが入っていたんですけど」
「当店ではその様な事は絶対致しません」
「でも、違ったのが入っていたんですけど、たしか店員はアルバイトのようでしたよ」
「彼らも絶対に間違えることなど致しません」   二の句が次げません。 日常生活でも、強情なスウェーデン人たちには、太刀打ちが出来ず、引き下がるのみです。
破産会社の社長、役員たちが泣いて「申し訳ありませんでした」と頭を下げている日本からのニュースが放映されますが、ここでは自分たちが悪かったなどテレビで詫びる社長など見たことがなく、必ず
こういう不景気の最中でとか、安賃金の国には勝てないとか、色々言い訳を探して記者会見は終わります。我が主人の家族も母親を除き全員が超強情。結婚した頃は必ず私の聞き間違いで終了。
スウェーデン在住43年この頃はそうはいきませんが、やはり根は日本人で ‘‘もう いい‘‘ で終わる事が往々です。